創業200年の歴史
創業文政2年。醸造に約200年の歴史あり。
江戸時代、文政に創業
はつもみぢは文政2年(1819年)に創業。文政は江戸時後期代の1818年から1830年までの期間。
徳川家斉が将軍の頃でシーボルト事件や、伊能忠敬が中心となり大日本沿海輿地全図を製作したことで有名な時代です。吉田松陰をはじめとする明治維新の重要人物が多く生まれたのもこの文政の時代でした。
酒蔵はもともと文字にて何かを残すという文化がなかったと言われております。そのため当時の資料をいうものはほぼない状態な上、資料として残っていたものも、残念ながら昭和20年の空襲で無くなってしまっています。
この文政の2年目に、はつもみぢの原点である酒造りが始まり以降多くの経験が現在のはつもみぢに受け継がれています。
徳川家斉が将軍の頃でシーボルト事件や、伊能忠敬が中心となり大日本沿海輿地全図を製作したことで有名な時代です。吉田松陰をはじめとする明治維新の重要人物が多く生まれたのもこの文政の時代でした。
酒蔵はもともと文字にて何かを残すという文化がなかったと言われております。そのため当時の資料をいうものはほぼない状態な上、資料として残っていたものも、残念ながら昭和20年の空襲で無くなってしまっています。
この文政の2年目に、はつもみぢの原点である酒造りが始まり以降多くの経験が現在のはつもみぢに受け継がれています。
会社としての創立から徳山空襲まで
昭和3年に資本金七万円にて株式会社 原田酒場を設立。
当時の酒は樽詰めで販売されることが多く、四升、二升、一升の樽で出荷。
徳利の貸し出しなども行っており、夕方時には燗瓶を下げたまま一合、二合と量り売りを求めてこられるお客さまも続きました。
独自の酒造論を掲げ、当時の商品「初紅葉」は芳醇な口当たり、明朗な酔い心地と称されました。また酒造りだけでなく、豊かな水源確保のための井戸や貯水槽設置などの環境整備も推し進めていました。
酒造界の企業整備が始まり国の方針で多くの酒造家が廃業したり、酒造を続けるためには権利を買い取らねばならなかった時代。その後戦争の局面が押し迫った頃には軍からの伝達で航空燃料のアルコールを砂糖やとうもろこしで製造したこともありました。
そんな中でも地下にあるタンクに原酒を貯蔵し、原酒を守るための防災策を練るなど酒造りに対する情熱を忘れることはありませんでした。
当時の酒は樽詰めで販売されることが多く、四升、二升、一升の樽で出荷。
徳利の貸し出しなども行っており、夕方時には燗瓶を下げたまま一合、二合と量り売りを求めてこられるお客さまも続きました。
独自の酒造論を掲げ、当時の商品「初紅葉」は芳醇な口当たり、明朗な酔い心地と称されました。また酒造りだけでなく、豊かな水源確保のための井戸や貯水槽設置などの環境整備も推し進めていました。
酒造界の企業整備が始まり国の方針で多くの酒造家が廃業したり、酒造を続けるためには権利を買い取らねばならなかった時代。その後戦争の局面が押し迫った頃には軍からの伝達で航空燃料のアルコールを砂糖やとうもろこしで製造したこともありました。
そんな中でも地下にあるタンクに原酒を貯蔵し、原酒を守るための防災策を練るなど酒造りに対する情熱を忘れることはありませんでした。
戦争からの再スタート
昭和20年、空襲時、酒蔵の延焼を免れることができず建物は焼失してしまいましたが、地下の原酒は守ることが出来ました。建物がなくなってしまったので醸造することはできませんでしたが、戦火を免れた廃業酒造家を借り受けて商品の提供を暫定的に確保し、商品の提供を続けました。
そして昭和29年、生野酒造との合併があり、社名を「初紅葉酒造株式会社」と新しくし再スタートとなります。この年は中国五県、山口県の両新酒品評会で最優秀賞を頂いた喜ぶ年でもあります。この年小売部の店舗もでき、自社の商品はもちろん、焼酎やビール・ポートワインなども販売。
その後新しく元の場所に現在でも使用している酒蔵が建設されました。多くの困難がありながらも取引先を拡大してき、昭和35年、三栄酒造と合併。今の企業の土台を築いてきました。
そして昭和29年、生野酒造との合併があり、社名を「初紅葉酒造株式会社」と新しくし再スタートとなります。この年は中国五県、山口県の両新酒品評会で最優秀賞を頂いた喜ぶ年でもあります。この年小売部の店舗もでき、自社の商品はもちろん、焼酎やビール・ポートワインなども販売。
その後新しく元の場所に現在でも使用している酒蔵が建設されました。多くの困難がありながらも取引先を拡大してき、昭和35年、三栄酒造と合併。今の企業の土台を築いてきました。